■ 닥터K의 Sexology

포르노와 예술의 경계선

雄河 2015. 12. 20. 02:20

芸術評論 レジュメ 예술평론

 

 

 포르노와 예술의 경계선

   (ポルノとアートの境界線)

 

 

1 問題の所在

世の中には、裸の図像があふれている。今に始まったことではない。人間の歴史がはじまってから、ずっとそうである。ダ・ヴィンチやミケランジェロが教会の壁画に描いた絵でも、人は裸である。この場合、人の姿をした「神」であることが多いのだから、さらに冒涜的かもしれない。いずれにしても、厳かであるべき教会のなかは、裸であふれている。

ただ、こうした(宗教)絵画と、現代のヌード写真を、並べて議論するといえば、唐突に聞こえるだろう。たしかに二次元の図像に変わりはない。しかし、はっきり説明できないが、一緒にしてはいけないのではないか、という”感じ”がする。

こうした微妙な感覚のゆらぎは、美術史にもしばしばおきていた。

たとえば、下のジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作『聖女テレージアの法悦』を見てみる。「法悦」というエクスタシーの表現として取り上げられる彫像である。「法悦」とは、神の神髄に触れることで湧き起こる至上の喜びをいうが、エクスタシーに対する表現というレベルでは、それが神との合一であろうと、男女の合一であろうと、ひどくよく似ている。これが奇抜な指摘ではない証拠に、こうした性的とも見える表現ゆえに、当初の設置場所されたバチカンから他の場所に移動させられた。


 

今回の大きなテーマは、「ポルノとは何か」である。いったい、何がアートとして国立美術館の展示室を飾り、何がポルノとして作者が刑務所にひきたてられるのだろうか。ポルノと芸術の境界線は、どこに引かれるのだろうか。

下の映画「愛のコリーダ」(1976)は、有名な裁判になったものですが、あなた自身はこれをポルノと感じますか?

 


刑法理論では、次のような議論をします(通説)。

医者が患者を裸にすることも、教授が解剖学を講義するために裸体のイラストを示すことも、美大で裸の人物を描くことも、すべて刑法第22章の「わいせつ」に関する犯罪の構成要件に該当します。つまり、形式理論としては、一応すべて犯罪ではないか、という推定が及びます。しかし、医者が診察をするために患者を裸にすることは、刑法35条の正当行為として、違法性が阻却され、合法なものとなると解釈をします。何が「正当」かは、社会通念を基準とする、と通説はいいます。つまり、診療目的から外れて、わいせつな主観をもって、患者を裸にしたりすれば、正当化されないわけである。もちろん、主観を証明することはできないので、行為態様という客観面から、主観を推定することにはなる。

これに対して、結果は同じでも、本来合法なものが、一時的ではあるが違法の推定を受けるのはおかしい、という批判がなされます。

 

さて、アートに関するわいせつ裁判でも、同じ構造がある。

裁判でも、「わいせつ」に関する犯罪だという訴追に対して、「芸術」だという抗弁が正当化事由として提示される。ただ、論証としては、一段階、前提が省かれている。すなわち、① 性に関する表象には、「わいせつ」と「芸術」という2種類がある。② 「わいせつ」は違法だが、「芸術」は合法だ、というものである。さらにこの前提には、「芸術」は憲法21条の「表現の自由」にあたる。「表現の自由」がなぜ保護されるかというと、自己実現と自己統治の価値があるためだとなれば、もはや議論は憲法論まで発展する。

話を戻すと、「芸術」であることは、「わいせつ」という構成要件該当性に対して、第二段階の違法性阻却事由、つまり、「いいわけ」として機能している。

これは、刑法理論を援用したもので、この思考手順が絶対の真理だというものではない。事実、刑法理論のなかでも、有力説は十把一絡げに「わいせつ」の違法性をかぶせることに反対する。医者が診察するために、患者を裸にするのは、みかけは「わいせつ」だが、「正当業務行為」なので正当になる、という回りくどい論証はせず、最初から違法ではない、と言い切るのである。

では、ポルノとアートは、どういう関係にあるのだろうか。


 

ポルノとアートは、別次元のものなのか、それとも、上のまんなかの図のように、人は第一義的にわいせつな意図をもって裸の表象をもつものであるから、すべてがポルノであって、その一部、優れたものだけがアートに格上げされ、別扱いになるのか。はたまた、人間の表現行為の結果である表象は、ひとしく崇高な芸術的価値をもっていて、そのなかの一部の、卑猥な方向性をもった表象だけがポルノとして、社会的に劣位の評価を受けるのか。

上の3つのモデルは、ポルノとアートを別の概念として存在することを前提としてるが、はたしてそれは正しいのか。そもそも、ポルノは、価値が低いものなのか。価値が低い表現だから、保護の対象にならず、権力が介入してよいのか。

私としても、ポルノとアートの境界線を論じたいと思う。しかし、この議論は、上のように、ちょっと考えてみただけでも、果てしなく広がっていく、とんでもなく深遠なテーマである。即座に手をつけても、まとまりのある論述はできそうもない。そこで、このテーマに関する既存の優れた分析の方法を学習してみたいと思う。例にとるのは、多木浩二の『ヌード写真』(1992、岩波新書)である。

 

2 多木浩二『ヌード写真』・精読

2-1) 目次立て

まず、目次立てから見ていく。

政の政治学  
秘匿された情熱 -ダゲレオタイプのヌード写真-
写真が性をよこぎるとき -ヌード写真の社会学-
ヌード写真の反乱 -ゲームのパラドックス-
無性化する身体 -性的衝動の排除-
私的な視線によるヌード写真 -ひとつの歴史のおわり-
ヌード写真の変容 -神話の誕生-

 

多木が「ヌード写真」を論じるのに用いたのが、「受容」という社会からの視点である。人は、なぜ裸のイメージを欲し、あるところまで公開の場で美術として鑑賞することを許し、あるところからポルノグラフィーとして隠蔽されるのか、その基準がさしたる根拠もなく移り変わることは古代から現代まで変わらないが、変化する背景にある恣意性の中身は何か、それを政治学と呼ぶのであれば、その政治学を議論しようとした。そして、この政治学を、多木は「文化的コード」と呼ぶ。

2-2) 第2章 『秘匿された情熱 -ダゲレオタイプのヌード写真』 , Daguerreotype

「一九世紀の画家たちは、…それらのヌードはあらゆる生物的な細部をほとんど消し、艶やかではあるが一様に滑らかな皮膚に包まれた抽象的な身体になっていた。…剥きだしになった下腹部も滑らかな膨らみのある表面として股間に消えていく曲面になり、性を欠落したかのような表現をとっていた。性器を描かないことはもともと西欧の絵画のひとつの特徴であったが、一九世紀になると、解剖学的構造やディテールを無視して、表現を人為的に構成するようになるので、その部分の表現方法が一層端的にみえるようになる。性的であり、かつ無性である。このような表現が当時、展覧会など、公開の場で享受されるのが可能な裸の身体の表象であった。」(p25-26)

 

 Ingres 

 Daguerreotype   

  

 

 

「ダゲレオタイピストは、画家ほどモデルを美化する技巧を欠いていたとしても、なによりも写真には直接性があった。身体のさまざまな細部は自動的に克明に写しとられ、性器も全く遠慮のない様子で出現していた。
(中略)
当時の社会を考慮すると、単純な推理ができる。「一九世紀の絵画ヌードの形式/公開性」に対応して「ダゲレオタイプのヌードの形式/非公開性」という関係がおのずと想定できる。」

多木は、19世紀の絵画と、同じ時代に発明されたダゲレオタイプという初期の写真という、二つの媒体に現れたヌードの表現について、受容する社会の側が、背後にもつコード(約束事)を読み取り、図式化を試みている。この文化的コードは、時代と場所によって様々に、しかも、激しく揺れ動く。また、この文化的コードの背景には、様々な意図が錯綜する。

まとめてみよう。多木の評論から読み取れる結論の一つは、ヌード写真には、公開を許容される境界線の問題、モデルが圧倒的に女であること、などに文化的コード(約束事)を読み取れる、ということである。



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3 宗教絵画の意義について

宗教の定義

「宗教とは、人間生活の究極的な意味をあきらかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である。宗教には、そのいとなみとの関連において、神観念や神聖性を伴う場合が多い」(岸本英夫、『宗教学』、p17、原書房)

「憲法でいう宗教とは「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」をいい、個人的宗教たると、集団的宗教たると、はたまた発生的に自然的宗教たると、創唱的宗教たるとを問わず、すべてこれを包含するものと解するを相当とする。従つて、これを限定的に解釈し、個人的宗教のみを指すとか、特定の教祖、教義、教典をもち、かつ教義の伝道、信者の教化育成等を目的とする成立宗教のみを宗教と解すべきではない。」(津地鎮祭事件、控訴審、昭和46年5月14日判決)

偶像、神の姿

宗教画のもっとも直接的な類型は、神の姿を描く偶像である。世界の三大宗教について、比較を試みる。

もっとも、神の姿を描くことは、偶像崇拝批判との微妙な調整が必要となる。下の三大宗教においても、すべてが原則禁止の立場をとっている。この点、厳格な禁止を説くイスラム教ですら、宗派によって禁止の温度差があるという指摘もある。また、キリスト教でも、その原形であるユダヤ教では厳格な禁止を主張するのにたいして、新約聖書の世界では特別な主張はない。キリストの像の意義については、三位一体という複雑なロジックで許容されている。仏教は、元来、神を立てない宗教ですから、創造神たる仏の像は存在しないはずであり、釈迦自身も自らの視覚化を禁じたが、後生になって、多くのイメージが作られるようになった。

世界観の表現

宗教学者・岸本英夫の分類(『宗教学』、pp.88~89)によると、宗教的世界観として、理想世界と現実世界を対照的にとらえる傾向があり、その傾向として、三つの類型を指摘している。

第一は、理想世界を、別なところに求めるものである。極楽浄土、天国の思想である。

第二は、地上の現実世界を、理想世界に作り変えようという考え方である。神の国を地上に実現しようとする、社会的福音の思想である。

第三は、理想世界を現実世界に見いだそうとするが、具体的に作り替えるのではなく、人の内面に求める。西洋では、あまり展開しなかったとされる。

NINJA TOOLS
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@ http://siritai.jp/lecture/artcritic/res_nude.html

 


@  2010/03/14 19:03